言語の文法的性が話者の思考に影響する?
世界中の言語における文法的性(性区分)の有無を調査した研究(Corbett, 2013)によれば、世界の257言語のうち性区分がない言語が145、ある言語が112(このうち性区分が2つの言語は50、3つは26、4つは12、5以上は24)とのこと。言語によって分け方やその由来は異なりますが、およそ4割に性区分があることがわかります。
かつて男女(雌雄)の差を区別する必要あるいは意味があり、生きる上で必要だったのではないかと察せられますが、言語によって残り方は異なります。多くの言語で性を区別する必要が薄れてはいますが、今回の記事では、果たしてこの区分が、その言語を使う話者の思考に影響をおよぼしているのかを探ります。
■ 影響は幼少期から
言語の性区別が話者の思考に影響を与えるかは、研究者にとって長年の疑問です。アメリカの言語学者のベンジャミン・リー・ウォーフ(Benjamin Lee Whorf)は、言語の違いが思考に影響をおよぼすという仮説「異なる言語を話す者は、その言語の相違ゆえに異なったように思考する」(言語相対性仮説*1)を立てました。ウォーフは、話者の考え方と行動は使用する言語に影響を受けると示唆しましたが、この説は認知科学においては長年、退けられてきました。しかし「言語はどこまでその話者の思考過程に影響するのか」という問いは、今なお言語関係者の強い関心対象となっています。
1980年代のある研究(Guiora, Beit-Hallahmi, Fried, and Yoder, 1982)で、イスラエル・アメリカ・フィンランドの2歳児と3歳児のジェンダーアイデンティティ(性自認)の発達段階の比較・検証が行われました。その結果は、「イスラエルの子どもたちは、性認識の発達のタイミングにおいて、一時的ではあっても、アメリカやフィンランドの子どもたちより先行する」というものでした。これは、性区分の強いヘブライ語*2の話者がその母語の特徴ゆえ、ジェンダー上の差異を、性区分の弱い言語の話者よりも早く意識するようになることを示唆するものでした。「母語における性区分と性自認の獲得には直接的な関連があることが明らかである」と結論づけられたのです。
■ 文法上の性は思考にも影響する
2003年に発刊された書籍 ”Language in Mind” に収録されたBoroditskyらによる研究(Boroditsky, Schmidt, and Phillips, 2002)に注目してみましょう。そこでは、英語に堪能なスペイン語の話者とドイツ語の話者に、24個の対象物(無生物)を見せ、最初に頭に浮かんだ3つの形容詞を英語で書いてもらうという実験を行いました。
この対象物には、スペイン語とドイツ語で文法上の性、つまり男性名詞と女性名詞が逆になるものが同数ずつ選ばれています。対象物の文法上の性は、話者が思いつく形容詞に影響するのか。非常に興味深い実験ですが、結果、参加者は各々の言語で対応する文法上の性に強く関連する形容詞をはっきりと好んで書き出しました。例えば、スペイン語で「橋」は男性名詞 el puente ですが、ドイツ語では女性名詞 die Brücke となります。スペイン語の話者が橋について 「big、strong、long、dangerous、sturdy(頑丈)、towering(高い)」などと形容する一方、ドイツ語の話者は「beautiful、elegant、fragile、peaceful、pretty、slender」と形容する傾向が顕著に見られたのです。これは、母語の文法上の性が、物を対象とした思考に影響を与えていることを示しています。
■ 言語による影響か、文化による影響か
この違いは、参加者の母語における性区分による影響か、それとも文化的な違いに基づくものなのか。あるいは、ドイツの橋とスペインないしラテンアメリカの橋との構造的な違いが言葉の選択に表れたのか。さらに言えば、言語における性区分は文化的な感じ方の違いの結果であって、原因ではないのか。さまざまな疑問が残ります。
Boroditskyらは追加の実験を行い、今度は、英語の話者に架空の Gumbuzi 語と称する言語を教授し、この言語上の女性名詞と男性名詞に分けた12の無生物対象を見せ、この語句に対する形容詞を選択してもらいました。すると、参加者たちは、架空の言語である Gumbuzi 語でも、文法上の性に整合する男性的あるいは女性的な形容詞を選ぶ傾向を見せたのです。この結果から、人の思考は文化的な違いではなく、言語で割り振られた文法上の性によって影響を受けることが示されました。この後も、 Boroditsky らは文法上の性が言葉ではなく視覚(画)のみでも影響されるかどうかを調べる実験を重ねており、言語における文法上の区別が、記憶や言葉や画の表現に何らかのバイアスを与えることがある、と示しています。
他方で、考え方における違いは文法の違いと文化的な違い(文化的要素の欠落)のみによって生じるとする研究もあり、一概には断定できません。言語はコミュニケーション手段ですが、アイデンティティを示すものでもあります。人は所属する社会集団の中で育ち、時間をかけて母語や文化を体得しているため、母語における性区分が話者の考え方に影響をおよぼしていると実験で示されても、どのように、かつどの程度の影響を受けているかを見極めることは難しく、言語学・社会言語学などの分野を中心に、研究は継続されています。
■ 社会が性区分を変えることは?
では、反対に言語における性区分が話者あるいは社会の影響を受けて変容することはあり得るのでしょうか。
近年、国によってはポリティカル・コレクトネスやジェンダーフリーといった新しい考え方が台頭してきており、このような社会的観点から、言葉の選択や言い方が変わることがあります。また、最近では英語で he とも she とも呼ばれたくない LGBT*3 を配慮し、AP通信が they を三人称単数として利用するのを認めました。この they の使い方が世界的に広がるか否かは、これからの動きを見なければなりませんが、少なくとも英語においては、生物学的な性ではなく社会概念における性の考え方が言語に影響を与えることになりそうです。つまり、言語が人の考え方に影響するのと反対に、人の営みから言語に影響が出ることもあり得ると言えるのではないでしょうか。
日本人にとっては理解と記憶に時間がかかる他言語の性区別ですが、世界の共通語である英語話者にとっても、これは苦労の種のようです。性区分がなくなるとは考えづらく、 文法的性 を含め言語の特徴が話者の思考におよぼす影響については、今後も研究が続きそうです。
注釈:
*1 ウォーフとその師エドワード・サピア(Edward Sapir)の研究の機軸を成し、サピア=ウォーフの仮説とも呼ばれる。
*2 ヘブライ語には原則として男性と女性の2区分で中性はないが、複数形や動詞の人称変化にも性の区分がある。
*3 LGBT:レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシャル(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字をとった表現。