法律にまつわる翻訳
どんな分野の翻訳にも、対象言語の翻訳スキルはもちろん、該当分野の知識が必要です。内容や分野によっては、言葉から言葉への置き換えがそれほど難しくないものもありますが、分野によって正確さが重視されるものもあれば、芸術性が求められるものもあり、それぞれの分野に応じたスキルが必要となります。また、一見すると難しいと思われない個人名や土地名などの翻訳であっても、アルファベットの発音から「音訳」して文字を当てはめるなど創造性が必要となることもあります。翻訳する以上、単なる言葉の置き換えではなく、概念の異なるターゲット言語の読者にも、内容がしっかり伝わる文章に作り変えなければなりません。そのためには、言語能力を超えたセンスが必要になることもあるのです。法律にまつわる文書の翻訳にも、専門知識に加え、音訳、トランスクリエーション(翻訳と創造を組み合わせた造語)、さらにはローカリゼーション(地域化)を踏まえた翻訳スキルが不可欠です。
法的文書には、伝えなければならない要件が具体的かつ明確に書かれています。一方で、形式、スペース(行間)、または構成にわずかな変更が加わるだけで、文章全体の論理性が怪しくなってしまう恐れがあるのは怖いところです。誤訳が法的な問題や、裁判の長期化の原因となるのは避けなければなりません。特許申請書や事業の契約書なども法律文書に含まれますが、そのような文書での誤訳は、特許権取得の失敗やビジネス上の合意あるいは契約の不成立といった事態も招きかねません。
もちろん、法制度は国ごとに異なります。国の地域ごとに法制度および法概念が異なることすらあります。米国の状況を考えてみてください。米国は州制度を採用しているので、連邦法と州法の2つの法体系を有しています。50の州政府がそれぞれ州法を制定しているので、契約文書に関する規制も州によって異なることがあります。例えば、離婚時の夫婦の財産分割は州ごとに違いがあり、購入品、保証、および消費者保護に関する規制に至っては、市町村レベルで異なる場合もあります。そのため、米国の弁護士は実務を行う州ごとに免許を取得しなければなりません。州を超えて連邦法に関する仕事をしたいという弁護士は、別の認定を習得する必要があります。翻訳者は資格がなくてもできますが、法律事務所ではパラリーガルや言語に堪能な弁護士などが翻訳実務を担当することが多いようです。法律文書の翻訳に携わるには、国ごとの法制度と同様、その国の法概念が言語および文化とも密に関連していることを理解しておかなければなりません。
法律文書の翻訳者には、細部にわたり正確な作業を行うスキルが求められます。『Culture Clash:Anglo-American Case Law and German Civil Law in Translation(仮訳:翻訳における英米法判例研究とドイツ民法の研究)』の著者であるシルヴィア・スミス(Sylvia A. Smith)は、法律文書の翻訳には、ソース言語とターゲット言語両方の法制度に関する基礎知識、両言語を流暢に操る能力、関連するあらゆる用語の理解、そして、ターゲット言語の特殊な法律文書スタイルで書く能力、これら4つの要素が不可欠だと述べています。いずれが欠けても、不正確で、理解不能あるいは必要な要件や意図が伝わらない文書が作成されてしまうことになりかねません。
法律文書と言っても、裁判資料や業務契約書、行政関連書類、特許申請書、財務諸表、結婚/離婚の書類のようないわゆる法律にまつわる文書から、プレスリリースや通知文書、電子メールまで多種多様なので、スタイルもさまざまです。まずは、対象文書が伝えたい内容、目的を理解するところから始めます。該当文書の目的、言語と用語の形式、書式設定、ふさわしい表現などを考慮しなければ、よい翻訳はできません。また、法的文書では論調も重視されます。多くの法律文書は英語で書かれているため、能動的な表現で書かれることが多くなりますが、対象言語と文化が受動的な表現を多用する場合には、文章を再構築した方がよいこともあります。対象言語に訳出された文書を読んだ人が、文書の意図を理解できるだけでなく、対象国/地域の法制度との関連も理解できるようにしておくことが重要なのです。法律文書の翻訳の難しさは、一般的に原文の難易度が高いことに加え、構造の異なる言語で、異なる文化に基づく法的概念を説明することによると言えるでしょう。
もうひとつ、翻訳文書の翻訳で注意すべきなのはスケジュールです。多くの法的プロセスにおいて時間は重要な要素です。翻訳に慎重になるあまり時間がかかりすぎるのは問題です。例えば、特許申請、契約、取引などに関する文書の場合、期日までに提出しないと受理されない、または無効になるなど甚大な影響を及ぼしかねません。納期が厳しいとは言っても、作業する翻訳者を増やすことができない場合もあります。法律文書の内容によっては、厳格な守秘義務契約や秘密保持契約によって複数の人間が作業に関わることを制限することもありえるからです。外部の翻訳者や翻訳サービスを利用する場合でも、情報の機密性を確保するため翻訳者や翻訳サービス会社の作業手順や情報取り扱いの安全性の確認を求められることがあります。そのような依頼には、ファイル転送の方法や保管におけるセキュリティについて安心できる方法の提示、または発注者の指定に準じた作業の実施説明などにより適宜対応する必要があります。
さらに、国/地域特有のルールや変更/更新には注意してください。法律文書の翻訳には、法律用語や単語の知識だけでは収まらない法律知識が大切です。法律や法令、それらにまつわる文書の取り扱いは、絶えず更新/変更となっていることがあり、すべてを把握しきておくことは困難でも、注意は怠らないでおくべきでしょう。
このように、法律文書の翻訳には多くの困難が伴いますが、何が目的か、何を伝えなければならないかを意識することで、専門性・正確性の高い翻訳をスピーディーに進めることができるようになるでしょう。