医療・ヘルスケア翻訳の課題
どのような業界でも翻訳にはそれぞれの難しさがありますが、医療・ヘルスケア分野の翻訳は最も高度な分野の一つです。人命や健康に関わる内容なので、他分野よりも重大な責任が伴います。医療翻訳では、医療処置や医薬品の説明書など、たった一文字でも誤訳すると、悲惨な結果を招く可能性があります。
ここでは、医療翻訳会社がプロジェクトに取り組む際に直面する主な課題を紹介します。
医療用語の複雑さ
医療・ヘルスケア分野の翻訳で最も複雑な要素の一つが医療用語です。わずかな言葉の違いで患者の受ける医療に大きな影響を与えることもあるので、細心の注意が必要です。医療用語は原語から派生した用語が多いため、ターゲット言語と直接的に相関しない単語も少なくありません。
その場合、翻訳者はどの訳語を使うか、難しい選択を迫られます。
また、医療業界は広く、それぞれの領域で治療に応じた専門用語が存在します。そのため、翻訳会社は、依頼された分野の専門家である翻訳者をアサインする必要があります。
例えば、循環器内科の文書であれば、循環器内科に精通した翻訳者に翻訳作業を依頼するべきです。医療の専門家とはいえ、専門分野外の翻訳をしようとすれば間違いを犯す可能性があるからです。さらに、医療経験のない翻訳者が担当すれば、最終成果物に誤訳が生じることはほぼ間違いないでしょう。
医学におけるエポニム
エポニム(eponym)とは、新しい発見、理論などに発見者(発明者)などの名前に因んで命名された言葉です。医学におけるエポニム(medical eponyms)の場合、身体所見や症状(徴候)、疾患、手術方法などにそれを発見した医師の名がつけられているものが多々あり、アルツハイマー病、ルー・ゲーリッグ病、パーキンソン病などが挙げられますが、種類が多いため、医学といっても分野ごとの専門知識がないと翻訳の際に苦労することになります
このようなエポニムを翻訳する際の最大の問題は、ターゲット言語でも別の人物に由来するエポニムである可能性があることです。ターゲット言語には同等の表現がない場合もあり、代替となる単語を探すのがさらに複雑になります。
頭字語や略語
処方箋や医療指示など身近な医療文書にも必ずと言っていいほど頭字語や略語が含まれています。これらのほとんどは、その用語と用法を心得ていなければ翻訳不可能なため、その分野に精通し、ターゲット言語への正確な翻訳ができる専門家が担当しなければなりません。
このような点からも、専門分野に特化した翻訳者を見つけることは非常に重要です。その分野を完全に理解していない翻訳者は、医学の頭字語や略語に対応する訳語を選択する際に、訳を誤るリスクが高いのです。
その他のよくある落とし穴
頭字語や略語の他にも、翻訳者にとって問題となる単語やフレーズがあります。そのひとつが、複合語の多用です。heart failure(心不全)、pulmonary embolism(肺塞栓症)、patient safety(患者の安全)などの複合語は、英語の医療文書でよく使用されます。
このようなフレーズを翻訳する際には、元の意味が失われないように注意しなければなりません。また、医学用語には接頭辞や接尾辞が使われることが多く、使い方を誤ると意味が大きく変わってしまいます。例えば、「hypo」は「不足」を意味し、「hyper」は「過剰」な様子を表現するときに使われます。翻訳時にこれらを間違うと、診断結果が患者さんの病気と正反対になってしまうのです。
読者層もさまざま
医療業界に関わる人にもさまざまな立場の人がいるため、特定の読者層に向けたメッセージを適切に翻訳することが肝要です。意図した読者に向けてコンテンツを適切に翻訳するためには、そのコンテンツやメッセージを受け取るのが誰であるかを把握して翻訳する必要があります。
例えば、医師や医療専門家は複雑な専門用語を理解し、それを期待しますが、患者への指示はわかりやすい言葉で書かれる必要があります。
それぞれ異なったコミュニケーションのトーンを要する翻訳には、次のようなものがあります。
- 患者向けの文書: 請求書、プライバシーポリシー、保険情報、治療計画、同意書など、患者が署名する文書を十分に理解することが重要であり、患者が受け取る書式や情報には難しすぎる専門的な情報が含まれていてはいけません。
- 医薬品の説明書: 患者向けの文書と同様、薬の説明書も患者が理解できるものでなければなりません。しかし、医薬品の添付文書には、専門的な用語が含まれることも少なくありません。この場合、翻訳者には、添付文書の複雑な情報を翻訳する能力と、患者にとってわかりやすい文章に翻訳する力が必要です。
- 医療機器の取扱説明書: 医療機器の取扱説明書は、製品の組み立て方や正しい使用方法がすぐに理解できるように書かれている必要があります。医療分野に精通した翻訳者は、使用者が使い方を容易に理解できるような説明書を作成します。
- 臨床試験文書: この分野は、一般人である被験者を対象とした情報も、専門家のための膨大な情報も必要となるため、特殊な分野です。まず、治験の参加者は参加資格を得るために多くの書類に記入しなければなりません。また、治験のリスクについて十分に理解していなければなりません。さらに、臨床試験の結果は医学界向けに書かれ、専門的な情報も含まれます。
- 症例研究、学術論文: これらの医療文書は、完全に専門家向けであることを念頭に置いてデータを翻訳する必要があります。翻訳者は、用語やフレーズが対象言語にない場合でも、技術的な詳細を正しく翻訳する能力が求められます。
専門知識を要する医薬品名の翻訳
医療翻訳サービス会社では、疾病に関する翻訳だけでなく、医薬品の名称を扱う際にもさまざまな課題に取り組んでいます。
医薬品名の混乱を防ぐため、世界保健機関は特定の医薬品に国際一般的名称(International Nonproprietary Name : INN)を割り当てています。INNは、医薬品の有効成分に応じてWHO医薬品国際一般名称委員会が命名する世界共通の医薬品の固有名称です。INNは薬品名にまつわる混乱を軽減できますが、正しく翻訳するには、医薬品を専門とする翻訳者が必要です。
また、医薬品の翻訳を特に難しくしている要因として、それぞれの政府機関が国内で販売可能な薬に許認可を与えることが挙げられます。このため、医療翻訳者は、その市場で販売されている薬の情報を常に把握しておく必要があります。
医療翻訳者は、人々の健康管理を支援する重要な役割を担っているため、医療翻訳ならではの課題を抱えています。そのため、特定の医療分野の専門家であり、かつ必要な言語を母国語とする翻訳者の存在は、クライアントのニーズに応える上で欠かせません。医療に関わる文書は翻訳に特に細心の注意が必要ですので、医療文書に特化した翻訳サービスを選ぶようにしましょう。