家系図翻訳 ―過去と現在をつなぐ仕事―
日本ではあまりなじみがありませんが、 家系図 や故人の経歴を記した文書などの翻訳の需要が増えています。日本の戸籍のようなシステムのない国では、海や国境を越えて新天地へと移住してきた祖先の来歴を知りたくても記録がなく、記録や資料が残っていても別の言語で書かれていて読めないという事情があるのです。今回は、家系に関する文書(系譜)の翻訳の話です。
■ 家族の宝物
ある翻訳会社のもとに老紳士から、こんな依頼があったそうです。
「2つの文書の翻訳をお願いしたい。1つは、地元で尊敬を集めていたラビ(ユダヤ教における宗教指導者)である父の経歴を記した文書。もう1つは、その父の父、つまり祖父の一生についてしたためた文書。これらはヘブライ語で書かれており、読むことができないため、英訳する必要があるのですーー」
古雅なヘブライ語である上、多くの略語があり、翻訳にはかなりの時間を要したとのこと。しかし、いざ英訳した文書をお客様にお届けすると、それはもうたいへんな喜びようだったそうです。老紳士は言いました。
「家族の宝物を翻訳してくれて、ありがとうございます――」
■ 家系調査の今昔
「To remember where you come from is part of where you’re going.(自分の来歴を知ることは、自分が今向かっているところと切り離しがたく関わっている)」
これはイギリスの作家アンソニー・バージェスの言葉です。人は、時代を問わず、自らのルーツを知るため、そしてアイデンティティを確立するため、先祖の物語・遺訓・しきたりを大切にしてきました。そしてそれらを文書に記し、子孫に語り継いできたのです。家系を知ることは自分のルーツを探るだけでなく、埋もれている家族の歴史や文化的遺産を掘り起こすことでもあるのです。
先祖とは今を生きる私たちの一部でもあり、大切な存在ですが、幾世代にもわたってその記憶を継承していくことは、容易ではありません。特に一昔前までは、戦争や迫害、飢饉、天災などから逃れるため何世紀にもわたり移住を繰り返してきた人たちが家族の歴史をさかのぼることは、大変な労力を要する作業でした。各国の政府や自治体が住民の記録を残す配慮をしてきたとはいえ、保管された記録を一つひとつ調べるのには多くの時間がかかります。専門の業者がいて家系図の調査などへのアドバイスをしてくれることもありますが、資料を入手できても、見慣れたアルファベット以外で書かれている場合には解読が難しい上、場合によっては、他国での調査を行うための現地ガイドや翻訳者をその都度、雇う必要がありました。
近年は、世界中の保管記録や目録がデジタル化され公開されるようになってきました。オンラインで閲覧できるものもあり、自分のルーツを探るネットサービスや古い手書き文書を書き起こすソフトすらできています。デジタル技術の恩恵により、調査や情報収集は少し楽になりましたが、自分が読めない言語で書かれていれば翻訳が必要です。そこで、家族の過去と現在をつなぐ作業の一翼を担う、家系図または経歴を記した文書を専門に取り扱う翻訳者が必要とされるのです。祖先の足跡にアクセスしやすくなったことで、ルーツ探し市場が活性化しており、この分野の翻訳の需要も増えることが予測されます。
■ 系譜翻訳者に求められるもの
とはいえ、系譜の翻訳は翻訳者にとって簡単な仕事ではありません。
資料が手書きの場合は解読から始めなければならず、それには想像を絶する苦労を強いられます。古い文書の場合、ページやインクの節約のために略語や略字を使用していることが多く、熟練した専門家でさえ理解不可能なことすらあるのです。また、かつては綴り字や文法も不統一だったため、特定の文字が併用・混用されていることもあり、これらが略語同様、名前の同定すら困難にします。よい翻訳を提供するため、翻訳者には、こうした言語上の癖にも対処する術が求められるのです。
こうした困難を伴う分、それを専門とする翻訳者は、依頼者の役に立っているという大きな喜びを得ることができるでしょう。家族が先祖に目を向け、その歴史を解き明かす一助になる。そして、翻訳物が依頼者の家族の宝となる――。産業翻訳とは異なるやりがいと達成感があるに違いありません。
過去を探る市場は、これからも活性化しそうです。